Tabi Tales
Black Rain

井伏鱒二中国広島

井伏鱒二『黒い雨』ゆかりの地をめぐる — 広島・神石高原町

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『黒い雨』の原型となった実在の日記をたどる旅。広島平和記念公園から、その日記を綴った被爆者が生まれた中国山地の小さな町・神石高原町まで。

黒い雨

黒い雨

井伏鱒二

一瞬の閃光に街は焼けくずれ、放射能の雨のなかを人々はさまよい歩く。原爆の広島――罪なき市民が負わねばならなかった未曾有の惨事を直視し、“黒い雨”にうたれただけで原爆病に蝕まれてゆく姪との忍苦と不安の日常を、無言のいたわりで包みながら、悲劇の実相を人間性の問題として鮮やかに描く。被爆という世紀の体験を、日常の暮らしの中に文学として定着させた記念碑的名作。野間文芸賞受賞。

『黒い雨』を開いて最初に襲ってくるのは、爆発の場面ではない。天気だ。語り手・重松静馬は、姪が被爆したという噂を打ち消すため、1945年8月の日記を戦後になって清書し始める。読み進めるうちに、これは小説というより誰かの実際の手記のように感じられてくる。あざのような色に変わっていく広島の空。そして降ってくるのは、雨とは呼べない何か――黒く、油のように粘つき、袖や屋根に染みついて洗っても取れない雨。井伏鱒二は1966年、この質感を何もないところから生み出したのではない。実在した被爆者の、本物の戦時中の日記をもとに書き上げた。この旅がたどるのは、その一本の糸だ。空が実際にそうなった街から、日記を残した人物が暮らした静かな山あいの村まで。

他人の筆跡で書かれた小説

井伏自身は、原爆投下のとき東京にいた。500キロ以上離れた場所にいたのだ。『黒い雨』は彼の記憶ではなく、託された記録なのだ。言い伝えによれば、井伏がその日記の存在を知ったのは釣り旅行がきっかけだったという。糸を垂れる二人の男。そのうちの一人が、家の引き出しの中に、人生でもっとも凄惨な一週間を自らの手で綴った記録をしまい込んでいた。1965年1月、井伏は雑誌『新潮』で小説化の連載を始める。出来上がった小説は、日記特有の淡々とした、事務的とも言える口調をあえて残している――その平坦さこそが、やがて文中に降る黒い雨を、忘れがたいものにしているからだ。

立ち寄り先1: 広島平和記念公園 — 空が”そうなった”場所に立つ

広島平和記念公園内の原爆ドーム
写真: DXR / Wikimedia Commons

小説の日記部分の舞台は、1945年8月6日以降の広島――黒い雨がまさにこの一帯に降った、あの数日間だ。「ここに雨が降った」と示す案内板があるわけではない。再現された何かがあるわけでもない。それでも一番近づけるのは、原爆ドームの前に立ち、小説の文章がページの上で果たしている役割を、この場の静けさに委ねてみることだ。かつての広島県産業奨励館の焼け跡は、爆心地近くにあえて半壊のまま保存されている。隣接する広島平和記念資料館が、廃墟だけでは語りきれない部分を補ってくれる。

できれば早朝、団体観光客が到着する前に訪れたい。開園直後の1時間が、公園がもっとも静まり返る時間帯だ。それが、この場所が日記の一節の"間"に一番近づく瞬間だ。

立ち寄り先2: 神石高原町・小畠 — 日記の、ページの外の静かな余生

伝えられるところでは、静馬という語り手のモデルとなった人物は小畠(こばたけ)で生まれ、後年もここで暮らしていたとされる。現在の神石高原町にあたる、岡山県境に近い山あいの集落だ。広島市の戦時下の混乱からは、同じ県内とは思えないほど遠い。その"距離"こそが、ここを訪れる意味だ。都市部の淡々とした恐怖のあとに、小説も――そしてこの旅も――戦争がまったく違う形でしか届かなかった場所へと移っていく。

つつじが丘公園には文学碑があり、小説の一節が刻まれている。急いで読み流さず、ゆっくりと目を通してほしい一文だ。

「戦争は嫌だ 勝敗はどちらでもいい 早く済みさえすればいい」

そこから少し歩くと、地域資料館「志麻利(しまり)」がある。井伏の直筆原稿、井伏とモデルとなった人物が並んで写る写真、二人の間で交わされた書簡、『新潮』連載時の誌面コピーなど、この物語の背景にまつわる資料が約50点展示されている。小さく、急かされない部屋だ。そしてこの旅の中で、釣り旅行も、日記も、二人の間にあった友情も――そのすべてが実在した二人の人間の間に本当にあったのだと、もっとも実感させてくれる場所でもある。

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旅の実用メモ

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著者について

井伏鱒二は、生涯を通じて市井の人々の暮らしを、抑えた筆致とユーモアで描き続けた作家である。代表作『黒い雨』(1966年)は、実在する被爆者の日記をもとに書かれている。

井伏鱒二にゆかりの地