Tabi Tales
The Tale of Genji

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紫式部『源氏物語』の舞台を巡る、京都・大津の文学紀行

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『源氏物語』ゆかりの地を辿る。紫式部が執筆を始めたと伝わる大津の石山寺、物語の一場面そのままの京都の神社、そして宇治。

夕暮れ時、野宮神社へ足を運んでみてほしい。何も塗られていない黒木の鳥居をくぐるとき、あなたもきっと感じるはずだ。物語の中で光源氏が同じ場所に辿り着いたときの、あの静けさを。そこに立つ人間よりも大きな何かに、すでに明け渡された場所だという感覚。互いを深く傷つけ合った二人が、長い別れを前にもう一度だけ会う。この世と、聖なる世界の、ちょうど間にあるような場所で。

『源氏物語』は、平安朝廷に仕えた女房・紫式部によって書かれ、1008年ごろにはすでに宮中で読まれ、話題になっていたとされる。光る君・光源氏が恋と栄華のうちに歩んだ数十年を描き、最後の帖では次の世代の物語へと移っていく。全五十四帖。世界最古の小説と呼ばれることも多い作品だ。

これほど古い古典でありながら、その舞台となった実在の場所の多くは失われていない。千年以上を経た今もいくつかは、ほとんど姿を変えずに残っている。

この記事では、そのうち三か所を巡る。京都近郊に散らばる、紫式部が執筆を始めたと伝わる寺。物語屈指の、静かで胸を打つ場面がそのまま残る神社。そして、物語の最後を飾る「宇治十帖」の名の由来となった川辺の町だ。この三か所は京都から見て東・西・南とばらばらの方角にあるので、一日ですべて回る旅というよりは、それぞれ半日の小旅行として捉えてほしい。ペース配分については、記事末の実用情報で詳しく触れる。

その1:石山寺(大津)――物語が生まれたと伝わる場所

滋賀県大津市にある石山寺の境内
写真: Zairon / Wikimedia Commons

寛弘元年(1004年)8月、紫式部は琵琶湖を望む石山寺に籠り、依頼されていた新しい物語の構想を練っていたと伝えられている。十五夜の晩、湖面に映る月を眺めていたとき、物語の姿が見えてきたのだという。伝承によれば、それは今日「須磨」「明石」と呼ばれる巻から始まったとされる。宮廷の伝説が宮廷小説を生んだというこの逸話は、後年の語り伝えによって脚色されている可能性が高く、その通りに起きたことを証明する同時代の史料は存在しない。ただしこの話自体は本当に古くから伝えられてきたもので、寺に伝わる幾世紀もの言い伝えの中にも同じ筋が繰り返し登場する。石山寺は、この伝承を長きにわたって大切にしてきた場所だ。

彼女が執筆したと伝わる部屋は、今も本堂の一角に「源氏の間」として残されており、机に向かう等身大の紫式部像が置かれている。石山寺は伝説とは別に、京都・大津エリアを代表する月見の名所でもある。「石山の秋月」は、近江八景の一つに数えられている。

その2:野宮神社(嵯峨野)――「賢木」の別れの場面

京都・嵯峨野の野宮神社にある、木肌のままの鳥居
写真: Hyppolyte de Saint-Rambert / Wikimedia Commons

「賢木」の巻で、光源氏の恋人の一人であり、物語屈指の複雑な人物でもある六条御息所は、都を去る決意を固める。娘が斎宮に選ばれたばかりだったからだ。斎宮とは実在した平安期の役職で、皇女や近しい血縁の女性が伊勢神宮に仕えるために都を離れ、何年もの間、事実上宮廷を退くというものだった。源氏との長く報われない関係に疲れ果てた六条御息所は、都に残るよりも、娘とともにその流謫のような日々を分かち合う道を選ぶ。

都を発つ前、母娘はいったん野宮――都の外れの野に建つ社――に籠る。斎宮となる娘は、伊勢へ向かう前の一年をここで、ならわし通り身を清めて過ごさなければならない。光源氏はある晩、馬を駆って、六条御息所に最後にもう一度会いに向かう。

夕暮れから始まり、翌朝の別れへと移っていくこの一夜に描かれるのは、物語の中でも屈指の、静かで切ない場面だ。互いを深く傷つけ合った二人が、闇の中で寄り添いながら、本当に言うべきことの周りをただ言葉でなぞっていく。空が白み始めるまで二人は語り合い、それでも彼女は去っていく。

何も解決されず、何も帳消しにはならない。六条御息所はすでに行くと決めているし、光源氏もまた、物語の中でいつもそうするように、この恋を不注意に――そして手遅れになるまで――放っておいた。

その場に長く佇んでいると、この場面のすべてがそこにある気がしてくる。言うべきことを言いそびれた二人が、まさにそのための場所で、最後の別れを交わす。この神社の鳥居は、日本の他の多くの神社に見られる朱塗りとは異なり、あえて何も塗らず、木肌のまま風雨にさらされている。常設の社ではなく、一時的かつ清浄な場として役割を果たしてきたことの表れだ。この特徴は紫式部自身が本文の中で直接描写しており、それは今も訪れる者を迎える姿そのものである。

その3:宇治――物語の最終十帖の舞台

京都府宇治市、宇治川に架かる宇治橋
写真: 京都東 / Wikimedia Commons

物語の最後の十帖は、舞台を都から宇治へと移し、「宇治十帖」と呼ばれている。光源氏の死は本文には一切描かれず――「雲隠」という巻名だけが本文なしで残されているという、よく知られた省略だ――その死後、表向きは子とされる薫は、都と宇治のあいだを幾度も行き来しながら、世を捨てて隠棲する八の宮とその娘たちのもとへ通う。

それまでの巻の華やかな宮廷風俗とは打って変わり、より冷たく、霧がかった、憂いに満ちた物語がそこにはある。その舞台選びも意味を持っている。「宇治」という地名自体、平安期の言葉遊びの中で、すでに憂鬱の代名詞だった。「宇治」(うじ)は「憂し」(うし、つらい・情けないの意)と同じ響きを持ち、当時の読者ならすぐに気づいた掛詞だ。7世紀に架けられ、その後幾度も架け替えられてきた宇治橋は、本文にもその名がそのまま登場し、今も町を象徴する存在であり続けている。

橋からほど近い場所にある源氏物語ミュージアムは、まさにこの宇治十帖を軸に構成された施設だ。実物大の再現展示やアニメーション映像もあり、町を歩いて感じ取る宇治十帖の世界を、館内でまとめて確認したい人には向いている。

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著者について

紫式部は、西暦1000年前後の平安朝廷に仕えた女房であり、世界最古の小説とされる『源氏物語』の作者である。実生活について分かっていることは、自身の日記や当時の宮廷記録から知られる範囲にとどまる。「紫式部」という呼び名自体も後世につけられたもので、本名は記録に残っていない。

紫式部にゆかりの地