
村上春樹『1Q84』ゆかりの地をめぐる — 東京・三軒茶屋の非常階段
『1Q84』冒頭で青豆が異世界へ降りていく、首都高速の実在する非常階段を訪ねる。天吾の暮らす高円寺や、「柳の館」のモデルとされる麻布の庭園など、実在の東京の舞台もあわせて紹介。
タクシーが動かない。青豆は首都高速の渋滞にはまっている。どうしても遅れられない約束があるのに、運転手が世間話めかして口にするのは、警告にしか聞こえない一言だ――どうしても降りたいなら、近くに非常階段があります、と。青豆はそれを使う。鉄骨の階段を数十段下りると、そこはいつもの東京の路上だ。ただし、この本が終わるまで、もう何ひとつ「いつも通り」ではなくなる。
これが『1Q84』(2009〜2010年)の入り口であり、村上作品にしては珍しく、この場面の一部は実際に歩いて確かめられる。三軒茶屋付近には、小説の描写とかなり近い実在の階段があるとファンの間で特定されていて、ちょっとした巡礼スポットになっている。ほかの重要な舞台――天吾の暮らす高円寺の街、資産家の老婦人の「柳の館」のモデルとされる麻布の庭園、そして二人の主人公の故郷である千葉の小さな町々――も、実在の地理とフィクションらしい曖昧さが入り混じったかたちで描かれている。このガイドは、まず非常階段から、その足取りをたどっていく。
立ち寄り先1: 三軒茶屋の非常階段
青豆の乗るタクシーは、三軒茶屋付近の首都高速3号渋谷線(3号渋谷線)で立ち往生する。運転手が示すのは、池尻出口に近い非常階段――下を走る国道246号線へと降りるための道だ。村上は、この階段がどの保守用階段を指すのか、一つの場所に特定していない。小説はあえて曖昧なままにしている。それでもファンの間では、この一帯にある実在の階段が有力な候補として一致している。幅が狭く、鉄骨がむき出しで、支柱に沿ってらせん状に下りていく構造。長年のうちに「1Q84」の落書きが残されたこともある。
上ることは期待しない方がいい。今も現役の高速道路設備で、保守・非常用にゲートで閉ざされている。案内板もプレートもない――ここで求められているのは、下の普通の道路に立って見上げることだけだ。青豆が階段を下り始める直前に見ていたのと、同じ地上からの視点で。
- アクセス: 三軒茶屋駅(東急田園都市線)から、国道246号線と頭上の高速道路に向かって歩く。距離は短く数分だが、階段自体は保守構造物に紛れていて、一度目では見落としやすい。原作や映画版のワンシーンの写真を持っていくと目印になる。
- 知っておきたいこと: これは東京のごく普通の住宅地にある、本物の高速道路設備であって、観光名所ではない。交通音は絶えず、長く留まれるような場所でもないので、午後をかけて過ごす目的地というより、5分ほどの立ち寄りと考えるのがちょうどいい。
立ち寄り先2: 高円寺中央公園 — 天吾が二つの月を見上げる場所
物語の後半のほとんどを、天吾は高円寺で過ごす。杉並区にある、落ち着いた住宅地で、商店街も多く歩いて回りやすい街だ。駅からほど近い小さな街区公園、高円寺中央公園で、天吾はある夜ふと空を見上げ、もうひとつの月が浮かんでいることに気づく――天吾もまた、青豆と同じ変容した世界に足を踏み入れていたことを示す、これ以上ないほど明確なサインだ。青豆自身も、物語の終盤に高円寺へ移り住む。二人の主人公が、まだお互いの存在を知らないまま、実際にともに暮らすことになる数少ない街のひとつだ。
- アクセス: JR中央線・高円寺駅から利用する。公園は南口から徒歩すぐ。
- 知っておきたいこと: ここはごく普通の近隣公園で、記念碑のようなものではない。小説とのつながりを示すものは現地には何もない。高円寺の本当の見どころはレトロな商店街や古着屋で、公園の見学とあわせて回りやすい。
立ち寄り先3: 有栖川宮記念公園と善福寺(麻布) — 「柳の館」の実在モデル
物語に登場する資産家の老婦人は、麻布にある「柳の館」という邸宅で暮らしている。麻布は東京でも屈指の高級住宅地だ。モデルとなった特定の住所が確認されているわけではない。それでもファンや巡礼サイトの間では、南麻布にある有栖川宮記念公園が、作中の雰囲気に最も近い実在の場所として広く挙げられている――もとは皇族の邸宅で、現在は公園として一般公開されている土地。丘陵の散策路、古木、生垣の向こうにかすかに感じる旧家の気配。
少し歩いた先にある善福寺(麻布山善福寺)も、厳密な対応というより緩やかな連想として辿ってみる価値がある。参道には「柳の井戸」と呼ばれる井戸があり、寺の開創にまつわる伝説にちなんだ名前だ。証拠というより木霊のようなものと捉えてほしい――この寺で実際に有名なのは柳の木ではなく大きな古いイチョウで、これはあくまで名前から借りてきた雰囲気であって、確証のある文学的スポットではない。
- アクセス: 東京メトロ日比谷線・広尾駅から徒歩約3〜5分。
- 知っておきたいこと: どちらも無料で屋外にあり、時間を問わず見学できる。有栖川公園には池、丘陵の散策路、区立図書館もあり、『1Q84』とのつながりを抜きにしても訪れる価値がある。
作中に登場するその他の実在の場所
『1Q84』にはこのほかにも実在の場所がいくつか登場する。本格的な立ち寄り先というより物語に彩りを添える背景だが、それぞれに、通りすがりに知っておく価値のある一場面がある。
- 千葉県市川市: 青豆と天吾、二人の実際の故郷であり、物語上も意味を持つ土地だ。同じ小学校の同じクラスで、言葉を交わさないまま手を握り合った、あの廊下での一瞬。二人が大人になってもどこかで取り戻そうとしているのは、この記憶そのものだ。
- 千葉県千倉: 房総半島にある実在の町。天吾が読み、半ば入り込んでしまう物語「猫の町」と緩やかに結びつく土地であり、作中では天吾の父親が最期の日々を過ごす療養所の舞台にもなっている。父のそばに座って過ごす場面は、この小説の中でもとりわけ静かで切ないくだりだ。
- ホテルオークラ(現・The Okura Tokyo、虎ノ門): 物語終盤の重要な場面の舞台。作中の「ホテルオークラ」はその後建て替えられ、2019年に「The Okura Tokyo」として新たに開業した。実際に目にする建物は村上春樹が書いたものとは違う、と知っておく価値がある。
- 新宿: 新宿三丁目に近い歴史ある建物「新宿中村屋」と、その向かいにある紀伊國屋書店新宿本店は、どちらも現在も営業していて、小説の中の東京にも登場する。
- 東京都青梅市・二俣尾: 東京都西部の外れにある小さな駅で、深繪里(ふかえり)が戎野先生とともに身を寄せる山あいの家の最寄りとされている。
旅の実用メモ
- 訪問に適した時期: いつでも構わない。三軒茶屋・高円寺・麻布のいずれも、季節を問わない街なかの眺めだ。
- 拠点にする街: 東京都心。それぞれの立ち寄り先は、都心の主要エリアから自分の路線一本で20〜30分程度に収まるが、3か所は互いに近くはない。三軒茶屋(東急田園都市線)、高円寺(JR中央線)、麻布に近い広尾(日比谷線)は、それぞれ別に往復の外出が必要で、気軽に歩いて回れる距離ではない。1日に2か所を詰め込むより、別々の外出として計画するのがいい。
- 1か所だけ訪れるなら: 三軒茶屋の非常階段がおすすめだ。見た目のインパクトが最も大きく、『1Q84』冒頭の場面に直接結びついている。
- 原作について: 標準的な英訳版(第1部・第2部はジェイ・ルービン、第3部はフィリップ・ガブリエルによる翻訳)は、Knopf/Vintageから刊行されている。
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